世界の二大トイレ方式の謎?
あなたは、洋式派ですか?それとも和式派ですか?
世界のトイレ事情は、洋式派(腰掛け式)と和式派(しゃがみ式)に分けられ、この二大方式には宗教が影響しているのだそうです。キリスト教文化圏は、腰掛け式便器が中心であり、腰掛け式としゃがみ式との境界線は地中海だと言う説があります。ヨーロッパは腰掛け式であるのに、地中海より南、アフリカやアラブ諸国はしゃがみ式と言うことが裏付けになっているのです。結論として、腰掛け式としゃがみ式との違いは、キリスト教文化圏とイスラム教文化圏の違いから発生したものとなります。
日本の和式便器はしゃがみ式だが、金隠しがあるのは日本だけの文化であることを知っていましたか?他の国のしゃがみ式は、単に下に穴があいているだけなのです。では、金隠しのルーツとはなんでしょう?平安時代、貴族の女性が排便する際に十二単を汚さぬよう、樋箱(しのはこ)というおまるの後方に、T字型あるいは柵状の取っ手が取りつけられていました。この取っ手に衣服の長裾をからげて用を足していたのです。しかし、後年になると便器の前後を分別する目印となり、さらに後年、衣服に長裾がなくなると、前を隠すオブジェに転化した、という説があります。別の説として、敵が切り込んできたときに大事なものを守るためだという武士起源説もあり、はっきりしたルーツはわかりませんが、金隠しに長い歴史があるのは間違いないようです。
世界のトイレ事情は、洋式派(腰掛け式)と和式派(しゃがみ式)に分けられ、この二大方式には宗教が影響しているのだそうです。キリスト教文化圏は、腰掛け式便器が中心であり、腰掛け式としゃがみ式との境界線は地中海だと言う説があります。ヨーロッパは腰掛け式であるのに、地中海より南、アフリカやアラブ諸国はしゃがみ式と言うことが裏付けになっているのです。結論として、腰掛け式としゃがみ式との違いは、キリスト教文化圏とイスラム教文化圏の違いから発生したものとなります。
日本の和式便器はしゃがみ式だが、金隠しがあるのは日本だけの文化であることを知っていましたか?他の国のしゃがみ式は、単に下に穴があいているだけなのです。では、金隠しのルーツとはなんでしょう?平安時代、貴族の女性が排便する際に十二単を汚さぬよう、樋箱(しのはこ)というおまるの後方に、T字型あるいは柵状の取っ手が取りつけられていました。この取っ手に衣服の長裾をからげて用を足していたのです。しかし、後年になると便器の前後を分別する目印となり、さらに後年、衣服に長裾がなくなると、前を隠すオブジェに転化した、という説があります。別の説として、敵が切り込んできたときに大事なものを守るためだという武士起源説もあり、はっきりしたルーツはわかりませんが、金隠しに長い歴史があるのは間違いないようです。
トイレの別名?
「便所」といえば大小便をするところ。でも、「トイレ」や「WC」と言うことが多くなり、おおっぴらに「便所」とは言わなくなりました。横文字を使わなくても、日本には古くから便所のことを指すいろいろな言葉があります。まず1つ目が「かわや」(居酒屋の藩では「厠」と表示されています)という呼び名です。これは、昔の農村の多くの家庭の便所が、家の北側に建てられた小さな小量であったところから、便所のことを「側家」(かわや)と呼ぶようになったというものです。このほかに、「川屋」説もあります。これは、もともと用便というのは水上でするのが習わしで、川の流れの上に小屋をつくり、便を川に流して用足しをしていたため、その小屋を「川屋」(かわや)と呼んだというものです。そもそも、日本人の先祖の多くは、南方からやってきたらしいということから、東南アジアやインドネシア地方の水上用便の風習が、そのまま日本に持ち込まれたと考えるのは妥当なところで、この「川屋」説のほうが、「側屋」説よりも、自然そうです。
さて、今でもお年寄りなどは、便所のことを「せっちん」といったりしますが、この呼び名は、中国のお寺の名前に由来しているそうです。浙江(せっこう)省の雪隠寺で便所掃除を担当していたお坊さんが別の禅寺に移ったところ、その禅寺の坊さんたちが「雪隠寺の便所和尚が釆た」と陰口をたたいてからかっているうちに、いつまのにか、「雪隠」(せっちん)が便所の陰語になってしまったのです。この言葉は、鎌倉時代に中国から伝わったものですが、都でそれが流行語になると、たちまちのうちに全国に広がってしまいました。ただし、女性たちは、女房詞で大便を意味する「おとう」という言葉で便所のことを呼んでいました。
また、茶の湯の方で、高貴な人の用便のために設けた雪隠のことを「砂雪隠」(すなせっちん)と呼んでいます。これは、自然石を置いて川砂を盛り、杖(つえ)を添えて露地のうちにつくったものですが、いまでは露地の一種の装飾的な存在で、飾り雪隠になっています。
さて、今でもお年寄りなどは、便所のことを「せっちん」といったりしますが、この呼び名は、中国のお寺の名前に由来しているそうです。浙江(せっこう)省の雪隠寺で便所掃除を担当していたお坊さんが別の禅寺に移ったところ、その禅寺の坊さんたちが「雪隠寺の便所和尚が釆た」と陰口をたたいてからかっているうちに、いつまのにか、「雪隠」(せっちん)が便所の陰語になってしまったのです。この言葉は、鎌倉時代に中国から伝わったものですが、都でそれが流行語になると、たちまちのうちに全国に広がってしまいました。ただし、女性たちは、女房詞で大便を意味する「おとう」という言葉で便所のことを呼んでいました。
また、茶の湯の方で、高貴な人の用便のために設けた雪隠のことを「砂雪隠」(すなせっちん)と呼んでいます。これは、自然石を置いて川砂を盛り、杖(つえ)を添えて露地のうちにつくったものですが、いまでは露地の一種の装飾的な存在で、飾り雪隠になっています。
日本のトイレはいつから洋式?
日本に洋式(腰掛け式)の便器が入ってきたのは明治時代。日本の洋式トイレも100年以上の歴史があるわけです。最初は外国人によって持ち込まれたモノや輸入したモノでした。しかし明治時代や大正時代は、外国人の家や、外国人が多く利用するホテルなどの施設で使われていただけで、一般の人にはまったく縁がありませんでした。
昭和の戦後になって、ようやく都市部のトイレを中心に水洗化と共に洋式化が始まりました。一般的に洋式が知られるようになったのは1959年に全国の公団住宅で採用されてからなのです。それがきっかけになって洋式便器は日本の住宅に本格的に普及し始めました。
しかし、このまま和式は消えてしまうのでしょうか?
公共のトイレでは依然として和式便器の支持があるからまったく姿を消すことはないと考えられますが、和式便器を知らない子供世代は出てくるし、お年寄りも増えてくるとラクな姿勢で用が足せる洋式便器がますます支持されてくることでしょう。減少傾向は続いていくでしょう。
昭和の戦後になって、ようやく都市部のトイレを中心に水洗化と共に洋式化が始まりました。一般的に洋式が知られるようになったのは1959年に全国の公団住宅で採用されてからなのです。それがきっかけになって洋式便器は日本の住宅に本格的に普及し始めました。
しかし、このまま和式は消えてしまうのでしょうか?
公共のトイレでは依然として和式便器の支持があるからまったく姿を消すことはないと考えられますが、和式便器を知らない子供世代は出てくるし、お年寄りも増えてくるとラクな姿勢で用が足せる洋式便器がますます支持されてくることでしょう。減少傾向は続いていくでしょう。
どうしてトイレの後に手を洗うの?
便器の歴史とは少しかけ離れてしまいますが、なぜトイレから出ると手を洗うのでしょう?
平安時代までは「お手洗い」なんてものはありませんでした。庶民は道端で用を足していたし、貴族の屋敷にもトイレという独立した場所はなかったのです。便所に手洗い場をくっつけたりして、「お手洗い」=「便所」なんて言い方のきっかけを作ったのは、鎌倉時代に伝わってきた禅なのです。禅のルーツをたどるとインドに行き着きます。仏教の教えの元に、インド辺りでは左手は不浄の手と言われ、排泄後のおしりは左手の指と水で拭いていました。そして、直に触れるわけですから念入りに手、特に左手を洗うのです。しかし、それが中国を通って日本に伝わってくると、手で拭いているわけではないのに、(籌木ってやつとか紙でふいてた)禅寺の人たちは守るべき作法として念入りに手、特に左手を洗ったのです。その風習が今でも残っているのです。
平安時代までは「お手洗い」なんてものはありませんでした。庶民は道端で用を足していたし、貴族の屋敷にもトイレという独立した場所はなかったのです。便所に手洗い場をくっつけたりして、「お手洗い」=「便所」なんて言い方のきっかけを作ったのは、鎌倉時代に伝わってきた禅なのです。禅のルーツをたどるとインドに行き着きます。仏教の教えの元に、インド辺りでは左手は不浄の手と言われ、排泄後のおしりは左手の指と水で拭いていました。そして、直に触れるわけですから念入りに手、特に左手を洗うのです。しかし、それが中国を通って日本に伝わってくると、手で拭いているわけではないのに、(籌木ってやつとか紙でふいてた)禅寺の人たちは守るべき作法として念入りに手、特に左手を洗ったのです。その風習が今でも残っているのです。